「父の戦争体験記」~熊本大空襲~

昭和10(1935)年「熊本」生まれ。
私の父は、87歳(2022年現在)。

父が、記憶をたどり、戦時中のことで覚えていることを執筆し、それをもとに私が話を聞きながらまとめました。

77年前の話なので、うまく伝えられるかどうかはわからないけれど、父が覚えている記憶をここに残したいと思います。

戦時中の学校

熊本大空襲の少し前、爆撃の危険があると聞いて、校舎ではなく、川端の大きな木の下に、その地域の1年生から6年生が集まり、リンゴの空き箱等を持ち寄って授業を受けていた。

先生は、1人で1年から6年生まで受け持っていた。

当時の学校は、小学校ではなく国民学校といっていた。

父の家族

昭和20年当時、「父、母、長姉、次姉、兄、自分、弟」の7人家族。

姉2人は中等学生だったので、家から離れた軍需工場で働いていて、自宅にはいなかった。

戦時中、学徒勤労動員といって、国内の労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒は、軍需産業や食料生産に動員され、勤労することを国に命令されていた。
学徒勤労動員の中には、勤労先の不衛生な住居環境や、ひどい食事による病死、また劣悪な労働環境のために亡くなった人もいた。

熊本大空襲~昭和20年7月1日~

深夜に、ウーウーというサイレンの音で目を覚めると、いつもの警戒警報の響き。今夜もアメリカの爆撃機B29の襲来である。

私達家族5人(父、母、兄、自分、弟)は、防空頭巾などを準備していたら、すぐに音がブォアブォアとなり、空襲警報に変わった。

今日はいつもと違うと思い、池の水に防空頭巾を濡らし、それをかぶり焼夷弾に注意していたら、ゴォーという焼夷弾の音がして、真っ赤な火が飛び散った。

私達は、庭に作ってあった防空壕に避難した。

そのうち、防空壕の周りが火の海となった。

父が、「防空壕にいたら危ない」と言い、私達は近くにある大きな川に避難した。

大きな怪我をした人たちが何人もいたが、幸いに私達家族は5人とも無事だった。

自宅が焼失

夜が明けて家に帰ってみると、家は丸焼けになっていて、家から見て西側と南側と東側の家並みは数キロメートル先まですべて焼失し、焼け野原となっていた。

幸い北側の家並だけは焼けずに残っていた。

私たち家族は、焼失した家の焼け跡から、使えるものが残っていないか探した。

お釜を見つけ、もしかしたらご飯が残っているかも?とお釜を開けたら、中は真っ黒だった。

真っ黒に焼けたお米の下のほうに、食べられそうなご飯をほんの少し見つけたので食べてみたけれど、焦げた味がしてまずかった。

他にも使えるものが残っていないか探していたら、焼けたお皿が何枚も出てきた。

その中に、焼け残ったお皿2枚を見つけ、それは今でも大事にしている。

家には、代々受け継いでいた刀や、槍や弓などがあったが、無残な姿で見つかった。

他にもいろいろあったが、ほぼすべてが1日で灰になった。父や母はさぞつらかったと思う。

でも、私たちの家だけが焼けたわけではない。近所の半分以上が家を焼失した。

私たち家族は全員無事だった。落ち込んでばかりいても仕方がない。

幸いにも北側にあった隣の家が焼け残っていたので、隣の家の人がおむすびを作ってくれた。それが何よりも嬉しかった。

そのおむすびをにぎって、4~5軒先の焼け跡を見に行った。

そこには人が倒れていて、その人の体は真っ黒に焦げ、腹は大腸が真っ赤に飛び出していて無残だった。

それでも、子供だった私はお腹が空いていたので、それを見ながらもおむすびを食べた。

親戚の家へ

その夜は、寝るところも食べるところもなかったので、同じ熊本県の親戚の家を訪ねることにした。

同じ熊本県と言っても、歩いてすぐの所ではない。熊本市電「路面電車」も、近くのバスも動いていなかった。

鉄道も動いているのかわからなかったが、長い距離を歩いて駅に向かった。

駅に着いたら、幸い鉄道は動いていた。家は焼けたけれど、手に持っていたお金があったので、それを使って鉄道に乗ることができた。

鉄道の次は、バスが動いていたので、バスにも乗ることができた。

当時、ガソリンは軍が利用していたので、バスは、ガソリンではなく木炭で動くバスだった。木炭車だと馬力が無かったので、上り坂では乗客が降りて、後ろから木炭バスを押していた。

その後、なんとか無事、親戚の家に着いてホッとしたのを覚えている。

熊本大空襲(7・1空襲)とは

昭和20(1945)年7月1日、アメリカ第73爆撃航空団所属のB29爆撃機154機が熊本市に侵入。熊本軍用地帯、熊本駅および操車場、製紙工場、郡是製糸工場、鐘淵紡績工場、三菱航空機株式会社熊本工場、西部ガス株式会社を目標に23時50分より、2日1時30分ころまで熊本市に焼夷攻撃がかけられ、投下量は1107.2トンに達した。
(『第21爆撃飛行集団戦闘要報』)

新市街、下通町、水道町、大江町、新屋敷町、安巳橋通町、水前寺町、草葉町、黒髪町など市街の大部分が焼失し、熊本市の損害は市街地の約20%に及んだ。被害状況は、被害戸数9077戸、罹災人員36314人、死者388人、重軽傷者475人、行方不明13人、家屋破壊・焼失9077戸であった。
(「熊本市空襲被害状況」)

被災した主な機関は、熊本幼稚園、白川・黒髪・本荘・壺川・熊本高等小学校、熊本中学校、済々黌、大江高等女学校、熊本医大などの教育施設が全焼又は一部焼失、熊本県庁、県会議事堂、県立図書館、市電気局、専売局工場、熊本郵便局など焼失、熊本市電は全線不通(12日一部開通)、電話線全面不通(11日620本開通)、電気も配電を中止した。市の大半は廃墟と化し、出水町の肥後製ろう株式会社は5日間燃えるにまかされた。死傷者の収容は警察、警防団総動員で数日を要している。
(『熊本の昭和史』)

熊本大空襲(8・10空襲)とは

8月10日午前、沖縄基地を発進し、東方から侵入したB29と小型機の編隊約210機が県下一円を襲撃した。熊本市に対しても白川以東から以南にかけて焼夷攻撃と機銃掃射を加え、7月1日の空襲で焼け残っていた、本山町、春竹町、本荘町、大江町などを焼くとともに、熊本市立高等女学校などが焼失した。熊本市の被害戸数は1551戸、内家屋全焼1491戸、半焼58戸、半壊2戸、罹災人員6308人、死者45人、負傷者43人にのぼった。
(「熊本市空襲被害状況」、『熊本の昭和史』、『熊本市戦災復興誌』)

熊本のほか、宇土、水俣、隈庄などでも被害が大きかった。鹿児島本線緑川鉄橋橋脚が爆破され不通となり、宇土町では中心部を大半焼失したほか、宇土保健所・宇土駅・宇土国民学校・宇土高等女学校なども焼失し、日本合成は操業不能に陥った。隈庄町周辺では隈庄・豊田・杉上・東部国民学校が焼失。水俣町は中心部が焼失、日窒水俣工場は操業不能に陥った。
(『熊本の昭和史』)

出典:総務省ホームページ