「父の戦争体験」熊本大空襲のその後

2024年3月 父がこの世を去りました。

88歳。亡くなる間際まで、自分の足で歩き、元気に好きなことを好きなだけ楽しみ、本当に、いきなりぽっくりいなくなりました。

父が体験した、熊本大空襲。

その後のことが気になり、父に「その後の話は書かないの?」と聞くと、「後でね。」と言われ、高齢の父には大変だったようで。

待っていたけれど、それは叶わなくなってしまいました。

今回は、私が聞いた父の体験を、ほんの少しですが、ここに残したいと思います。

親戚の家に着いてから、その後の話

空襲で家を失った父たち家族は、熊本の親戚の家で暮らすことになりました。

親戚の家と言っても、戦時中は食べるものが少なかったので、

父たち家族は、畑を借り、(かぼちゃ・さつまいも・あわ・むぎなど)、

自分たちの食べるものは自分たちで作り、食べていたそうです。

闇市に行ったこともあったようです。

熊本大空襲は、1945(昭和20)年 7月1日

終戦は、1945(昭和20)年 8月14日

あと少し、戦争が終わるのが早かったなら、家が焼失することは無かったのに。

子供の頃の父の写真は1枚しか見つかりませんでした。

親戚の家で終戦を迎えた父たち。

親戚の家には、1年~1年半ほど(記憶が定かではない)滞在していたようです。

その後は、焼失した家の土地に新しく家を建てるのではなく、

父の家の所有する借家が焼けずに残っていたので、そこに住むことになりました。

当時、父の家は少し裕福で、地主のようでした。

父や、父の兄には、小さい頃から「ねえや」さんがいました。

戦後、地主は「農地改革」があったので、色々と大変だったようです。

「農地改革」

第二次世界大戦後の日本を統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、自作農を増やし、農村を民主化するために1946(昭和21)年から1950年にかけて行われた改革。

政府が地主から小作地を買いとり、小作人に売りわたすことによって自作農をつくることを中心に行われた。

土地代は10年換金できない国債で支払われたが、インフレでその価値がほとんどなくなり、それまで栄華を誇った地主の多くが没落した。

そして土地は小作人に安価で払い下げられたため、自作農が増え、事実上地主制は廃止となった。

近くの川が氾濫し、床上浸水したりと大変だったこともありましたが、

父は、大学に入り東京に行くまでその家で過ごしました。

私が知っている祖父母の家も、この家になります。

2016年4月、築年数が古いこの家は、熊本地震で住めなくなりましたが、解体はしないで、柱などを残し改築し、今でも引き継がれています。

戦後は本当に大変だったと思います。

私たちが今、平和な世の中で生きられることを幸せに思います。